12.「協調」=「愛」の原理




 シューマッハカレッジの学生寮の窓からは、学校の裏手に広がる森と牧場を眺めることができる。その牧草地は、私達学生にとって、気分転換に寝転んで空を眺めたり、考え事をするには格好の場所であった。
 シューマッハカレッジのあるダーティントンは、このような牧場と森の混在する、とても美しいところである。ウサギや狐といった野生動物もよく目にすることができる。グレーと茶色の中間の色をしたウサギは、まさにピーターラビットそのものである。

 ある時、ひとつの森の中に足を踏み入れたことがあった。そこは中世の大きな屋敷のあとで、崩れかけた石造りの壁が蔦や草に囲まれて残っていた。そのあたり一面には、あたかも過去の栄華を懐かしむかのように、青いブルーベルの花が、誰に見られるともなく咲き誇り、木々の緑の天幕の中に、実に美しい空間をつくりあげていた。シューマッハカレッジのある環境は本当に恵まれていて、いろいろと想い出深いものがある。

不思議な体験

 落胆の中で目覚めたその翌朝、いつものように妻とささやかな朝食をとった後、さてこれからどうしようと思案したものの、どこか諦めのつかなかった私は、これが最後と思って、とりあえずもう一度だけゼロから考え直してみようと机の前に座った。そして、これまでやってきた研究で使った要らなくなった用紙を裏返しにして、紙に考えを書きはじめたのだった。

 10分位たった頃であろうか、昨晩の寝不足のせいか、知らないうちに何だかボーとしてしまった。あっ、いけないと、ふと我に帰えり、気をとりなおして、それまで書いていたメモに目を通した私は、突如その内容にくぎ漬けになってしまった。

 何とそこには、この半年間考えつづけても解らなかった、まさにその答えが書かれていたのであった。ラフなコンピュータ・シミュレーションモデルのアイデアであったが、不思議なことに、そのアイデアを見たとたんに、直感的にそれが間違いないものだとわかった。そして、そのシミュレーションモデルから出てくるだろう様々な結果も予想がついたのだった。

 しかしその一方で、私は奇妙な感覚に戸惑っていた。正直に言って、この答えは「私」が考え出したものとは言いにくかったからだ。自分がボーとしているうちに何処からか転がり出てきてしまったのだ。むしろ、見えない誰かが、答えを見出せなかった私を見かねて、親切に教えてくれたといった方が良いかもしれない。まさに、人に話せば笑われてしまうようだが、実際にわが身に起こった本当に不思議な体験であった。

 それからというもの、私の生活は一転した。二日をかけてシミュレーションモデルの基本的なプログラムを書きあげた。それをジェームズ・ラブロックが学校に寄贈してくれたコンピュータにのせ、シミュレーションはできるだけ自動化できるよう、プログラムを動かすためのプログラムも何本も書いた。そうして、パソコンはほとんど24時間動きっぱなしの状態で、様々なパターンのシミュレーションを繰り返し、予想をしていたとおりの、様々な結果を出してくれたのだった。
 論文の締め切りまでの最後の1ヶ月間は、朝起きてから寝るまで、ひたすら論文の執筆に没頭し、締切前日の深夜に、ようやく一揃いの論文が出来上がったのであった。

皆が共有する叡智の源泉

 実は、科学者の中には、突然脳裏に答えが沸いてくるような経験をする人が実に多いらしい。ある研究者は、奥さんを車で迎えに行き、駐車場で待っているさなかに突然脳裏に化学式が涌き出てきたというような話しを残している。先に答えがわかり、説明は後から考えるのである。のちに彼はそれでノーベル賞を受賞した。

 ノーベル賞の彼の経験と私の経験とを同列に扱ってはいけないが、私は先の体験を通じて、この世界には私達の目では見えない、大自然の皆が共有する叡智の源泉があるということを、強く確信するようになった。そして、普段、私達が考え出したものや創りあげた物事も、大なり小なり、この共有の叡智の源泉を源としていると考えるようになった。

 この大自然が、私達の頭脳を遥かに超えた叡智を背景に出来あがっているということは、実はアインシュタインを始めとした多くの偉大な科学者も信じていた。この自然界の仕組みを深く突き詰めていけばいくほど、最後には必ずそういった叡智を認めざるを得なくなるからである。人によっては、その叡智のことを「神」あるいは「愛」と呼んでいる。



協調の本質

 私の「協調」の本質を明らかしようとした研究も、それなりにひとつの区切りを迎えた。

 一般に「競争」の反対が「協調」と思われがちだが、それは適切ではない。自己を優先するか、それとも他者を優先するかを考えたとき、他者より自己を優先してしまうと「競争」「無視」「攻撃」「搾取」「命令」といった行動となり、一方、自己より他者を優先すると「自己犠牲」あるいは「服従」といった行動となってしまう。

 「協調」は、自己を優先するか、それとも他者を優先するかのせめぎ合いの中間点にある。簡単に言えば、協調とは「“自分自身”と同等に“他者と全体”のためを考えた行動」と定義することができる。

協調を基本にした組織

 幾つかの条件を満たし、この「協調」を実現したグループは、リーダーのような存在がいなくても、そこには自ずと一つの合意が形成されていく。逆に、他のメンバーの選択に強い影響力を与えるリーダーの存在は、協調の阻害要因となる。
 協調を基本にした組織では、従来のピラミッド型の組織に比べて、リーダー一人の判断では到達できなかったであろう、より相応しい選択が出来る可能性が増える。また、倫理的な誤りを起こしにくく、また、環境の変化により柔軟に対応して行くことができる。そして何よりも、メンバーの一人一人が、自分の役割とやり甲斐を見つけ、活き活きと活動できるという大きなメリットをもつ。
 だが問題は、どうしたらそのような組織が実現できるかである。実は、その重要な解決法の一つを、シューマッハカレッジの重要な講師候補の一人として名前があがっていたが、開校と前後して他界した世界的な量子力学者とその弟子が、書き残してくれていた。

協調を実現するための「真の対話」=ダイアローグ

 私の大学院生活も終盤に差し掛かったある日、私は、シューマッハカレッジの図書館の書棚で、本当に目から鱗が落ちるような一冊の本を見つけた。その晩、私は、まさに息を殺すようにして、時が経つのも忘れて、その本を一心に読みすすめた。
 その本は、世界的な量子力学の科学者であったデビット・ボームと、シューマッハカレッジの講師も勤めているデビット・ピートが、「真の対話」=ダイアローグについて書いたものだった。

 ボームとピートは、その本の中で、「自分の意見と同等に他人の意見を尊重しながら対話を進める」という「真の対話」=ダイアローグについて触れていた。
 「真の対話」=ダイアローグをつうじて、お互いが共鳴できる本当に大事な事が、次第に増幅され、明らかになってくるというのである。このダイアローグこそ、社会のなかで過ちを避けるための、最高の処方箋であり、免疫力となるとのことであった。

 ダイアローグという言葉は、ギリシャ語の「DIA」=通じる、と、「LOGOS」=ロゴスまたは真理、とを源にしている。「真の対話」=ダイアローグが、人間社会で大事な役目を果たすことは、はるか古代から知られていた智恵であったようだ。これはネイティブアメリカンが古来から行っていた、大事なことを決定するときのやり方とも共通している。

 シューマッハカレッジ自体の運営も、既にそういった協調と「真の対話」=ダイアローグを基礎にしたものとなっていた。学校では毎日、ボランティアから学長までが出席するミーティングが開かれる。そこでは、最初に“ア・フューミニッツ・サイレンス”という数分間の黙想が行われ、その後にミーティングが始まる。
 私もこのミーティングに参加したことがあるが、学長はミーティングの調整役に徹し、メンバーはお互いに十分に情報をシェアし、対等な立場でじっくりと意見を交換し合っていたのが印象的であった。


それはエコロジカル社会実現の必須条件

 よくエコロジカル社会について議論されるが、エコロジカル社会こそ、自然界の基本である協調の原理にそったものでなければ、それは本物とはいえないだろう。なぜならば、「真の対話」=ダイアローグを基本とした協調の原理に沿っていない限り、人類は今後も個人の利益を優先したり、思い込みによって過った道を歩みかねない。
 真のエコロジカル社会の実現には、私たち自身がとる行動の仕方から、組織の構造、意思決定のルールを、協調の原理が反映できるように大きく変えていかなければならないことを意味している。
 自然界の協調の仕組みと同じものが、人間界にも作られるようになったとき、人類はそのとき初めて、自然界の一員として正式に認められるだろう。そして、それこそが真のエコロジカル社会の姿と言えるのだろうと思う。

自らの手で、"協調”の社会を実現しなければならない人類

 私のシューマッハカレッジでの生活も終わりに近づいてきた。そんなある日、妻とともにトトネスの近くにあるダートマスという街を訪れた。この街は名前の通りダート川の河口にあり、小さな街であるものの洒落た建物や、美味しい料理店、素敵なお店があちらこちらに建っている。町全体が一つの絵になるような美しさから、いくつもの映画の舞台にもなっている。

 そこから車で少し行くと、高さが30メートルくらいのクリフ(断崖)が続く海岸線に出る。このクリフに立つと、澄み切った青い広い空とその先はフランスまで続く海、そしてあちらこちらに花の咲く緑に覆われた大地とを一度に見わたすことができる。



 この場所にいると、私達の地球全体が一つに繋がり、お互いが無ければ存在できない事をあらためて感じることができる。やはり、自然界の根底には、「協」の字のようにお互いが力をあわせて「調」べを奏でる、「協調」=「愛」の原理が働いているのは間違いなさそうだ。

 その中で私たち人間だけは、自由意思という何でも選択可能な素晴らしい能力を授かっている。自由意志は、人を愛することもできるし、反対に、人を傷つけることもできてしまう。私たちは、その自由意志をより良い方向に使うことで、「協調」=「愛」を自らの手で創りあげていかなければならない。その為には、人間同士のみならず、人間と自然との関係においても「“自分”と同等に“他者”(全体)を受け入れること」が大事であることに、もう疑いの余地は無い。

旅の終わり、そして、新たなスタートへ

 いよいよ大学を発つ時がきた。短い期間だったが、それまでの10年間よりも遥かに多くのことを学んだ日々であった。スタッフ全員が玄関の前に集まり、握手をしたり、抱き合ったりして見送ってくれた。大学からトトネスの駅までは、ハンガリーから来ていたクリストフとエディナの素敵な夫婦が車で送ってくれる事となっていた。

 車が出発したあとも、仲の良かったスタッフ達が、大学の敷地の端まで走りながら手を振ってくれているのが見える。潤む目の中で、見慣れたトトネスの風景が次々と後ろに流れ去って行く。今度ここを訪れるときは、一回り大きくなって戻ってこようと心に誓いながら、沢山の想い出とともに私はトトネスを後にしたのであった。


シューマッハカレッジを出たところにあるSt.Merry教会

Schumacher College 留学記

30年におよぶシューマッハカレッジの活動は、前半期と後半期で大きく異なります。この留学記は、その前半期にあたる、サステナブルな社会を創るために必要な考え方や知見を学ぶことを目的に、世界的な研究者や思想家、活動家が数多く招聘され、世界各国から学生が集まり、サステナビリティの分野で世界的に知られた学び場だったありし日々の様子を書き残したものです。

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