5.「癒し」とは何なのか?




あらゆる代替医療が手軽に受けられる

 トトネスの街には、西洋医学ではない自然療法のお医者さんや治療院が多い。その種類も豊富で、ホメオパシー、レイキ、シアツ、マッサージ、スピリチュアル・ヒーリング、アユールベーダ、鍼、ヒプノセラピーなど、まず代替医療として紹介されているものはほとんど揃っている。
 また、トトネスの中心部には、ナチュラルメディカルセンターという、各種の代替医療の治療が受けられる診療所がある。ここでは、一般の西洋医学の様に高い治療費は必要とはせず、患者さんは、感謝の気持ちをこめて日本円にして1500円程度を寄付することで、治療の対価を支払うのである。

 昨今、日本では「癒し」という言葉が至る所で目に付く様になってきている。だが、「癒し」とは一体何なのだろうか。私は、イギリス滞在中に、「癒し」とは何なのかということについて考えることが多かった。そのきっかけとも言える出来事は、渡英前までさかのぼる。

人類学者が書いた超意識の体験記

 私がイギリスに渡る2ヶ月程前、ある日、父が私に2冊の本をくれた。それはカルロス・カスタネダという人類学者が書いた本で、彼がメキシコのあるインディオの部族とともに生活し、その部族が古来から伝承する風習や秘伝について記録したものだった。
 カスタニエダは、インディオのシャーマンの一人だったドン・ファンに指導を受けながら、人間が普段に物を見たり、感じたりする世界を越えた、いわゆる超意識の世界を体験できる能力を身につけ、普通では考えられない様々な体験をしたのだった。その技法をトルテックというのだが、その体験はというと、どこかおどろおどろしく、まるでマジックの世界を見ているようなものであった。
 その頃の私にとっては、その本の内容は、にわかには信じられないものであった。私のイギリス留学には関係ないように思われたこの2冊の本であるが、実は多いに関係があったことが後になって分かるのであった。

インディオのシャーマンに会う

 3月のある日、私は授業と授業の間の休憩時間に、シューマッハカレッジの校舎の南に広がる、芝生の庭のベンチにいた。周囲には春の陽気が満ち溢れ、2センチくらいの黄色や白の可憐な花を咲かせるデイジーがあちらこちらに顔をだし、あたり一面に美しい色取りを添えてくれていた。芝生やデイジーの葉についていた夜露が蒸発し、しっとりとした湿った空気が、地面から春の「気」をのせて上昇して行くのが肌で感じられた。

 暖かい日ざしに身をゆだねながら考え事をしていると、一人のメキシコ出身の女性が「何を考えているの?」と声をかけてきた。彼女は、自然界の仕組みについての理論で世界的に知られるフンベルト・マチュラナ教授の集中講義の参加者の一人だった。


H.マチュラナ/F・ヴァレーラ

私は足元の芝生と石畳とを指し示しながら次のように答えた。
 「最近、生物と無生物とは、一体何が異なる為に、このような違いが生まれるのかについて、腑に落ちる答えが見つからなくて、ずっと考えているんだ…」。
 すると彼女は間髪を入れず、
 「そんなに難しく考える必要はないわ。生物と無生物には基本的な違いはないのよ。違って見えるのは生物と無生物とでは変化するスピードが違うからなのよ。」と語ってくれた。あまりの即座な答えに不思議に思った私は、
 「あなたは自然界のしくみが分かっているのに、どうしてマチュラナ教授の授業に参加しているの?」
と聞くと、彼女は
 「大学でアカデミックな研究をしているマチュラナ教授が、どうやってその理論に行きついたのか知りたかったのよ。」と答えた。
 そのとき私は、彼女が普通の人でないことを直感的に感じた。私はふと、父がくれたカスタネダの本のことを思い出していた。そして彼女に、私はイギリスに来る直前に、あなたの国のインディアンのことを書いたカスタネダの本を読んだのだけど、その内容は自分のこれまでの体験とはかけ離れすぎていて全てを信じることができなかったと話した。すると彼女は、
 「どうしてカスタネエダの書いたものが信じられないの?あれは全て本当の話しよ。実は私はドンファンと同じ部族の出身で、ドンファンと同じトルテックを習ったシャーマンなの。本に書いてある内容と同じようなことを、私も実際に体験したわ…」。

 彼女がシャーマンであることは、シューマッハカレッジのグッドウィン教授や講師のステファン博士も知っていた。彼らもカスタネダのことは知っており、興味津々の様子であった。そして、すでに彼女に話しをきく約束も取りつけていた。

 その後も彼女は、ことあるごとに私の疑問に答えてくれたり、インディアンが使う薬草のことや、トルテックの秘儀についても話してくれた。私には見えなかったが、彼女には自然界を浮遊する繊細なエネルギーの粒子の流れを見る事ができ、大学のなかをどのように流れているかも教えてくれた。

 集中講義の終わる前日には、トルテックの最も基本となる一連の呼吸法、体操のようなものも実演してくれたのであった。父が私にカスタネダの本を渡してくれて、そして程なく彼女と会ったのは単なる偶然であったとは考えにくい。もしかしたら、これは無意識の世界で既に決まっていたことで、私に大事なことを気づかせるための「計画」だったのかもしれないと今は思っている。

自然との繋がりを取り持つシャーマン

 シャーマンというと、その昔、自然崇拝の儀式を取り仕切ったり、独特な悪魔払いをして病気を治したりと、どこか宗教的、オカルト的なイメージを思い起こす人が多いのではないだろうか。だが、シャーマンの本当の姿は、ちょっとそれとは違う様である。
 その話しをしてくれたのは、シューマッハカレッジの講師としてアメリカから来た若き哲学者デビッド・エイブラムであった。
 

The spell of the sensuous / David Abram

彼は、世界各地の自然を探検したり、古い伝統を今も守っているアジア、アフリカなどの部族と生活し、人間と自然との関係を研究してきた人である。彼によると、シャーマンの主な役割とは、常に部族の人間が自然との繋がりを維持できるように取り持つ役目を担ってきたというのである。
 部族の人が病気やトラブルに見舞われたときには、自然あるいは宇宙の本源との繋がりを取り戻させることによって、心や身体に本来あるべき姿を思い出させ、病気の回復あるいは状況の改善へと導いて行くのもシャーマンの大事な役目の一つだそうである。

 本来、人間は自然の一部であるにもかかわらず、2000年前からローマカトリックが勢力を伸ばしたころから、人間は動物ではないとの考え方が広まり、浸透してしまった。それが人間を自然からさらに遠ざけてしまったのは明らかである。
 そのローマカトリックの考え方に強く影響されているのが現代の一般的な科学であり、さらにその科学の考え方は、社会、経済、生物学など様々な分野にも大きく影響している。人間が自然から離れれば離れるほど、愚かな過ちも多くなることは、私達の歴史が明らかにしてくれている。その反省からか、人間は自然の一部であることに気づき、自然との繋がりを意識的に求めている人も増えつつあるようだ。
 トトネスでは瞑想という言葉を良く聞いた。瞑想をすることも、自然との繋がりを取り戻す大事な機会であるようだ。

食事をするように瞑想する人たち

 トトネスの街では、ほとんど毎日、どこかで音楽会、講演会などが開かれる。するとイベントが始まる前の5分から10分くらい、皆で目をつぶって静かに瞑想することがしばしばある。近くのシャーパン大学で開かれる講演会では、実に30分間の瞑想のあとに講演会を始めるのが通例となっている。
 これは何も宗教的な意味合いでやっているのではない。これこそ、自然あるいは宇宙の本源との繋がりを取り戻し、自分を調和した状態に戻すためのものなのである。瞑想をして心身の調和をとった上で、芸術を鑑賞したり、良い話しに耳を傾けたりするのである。
 日本で瞑想というと宗教くさいと思われがちだが、トトネスで瞑想を習慣としている人にとっては、それはご飯を食べるのと変らないくらい生活に密着している。
 シューマッハカレッジでヘルパーとして働いていたウェンディーさんは、小さな子供のときから瞑想をしていたそうである。彼女を見ていると、朝、昼間、夕方にかかわらず、構内が静かになる時間帯には、よく学校の瞑想室に入って瞑想をしていた。シューマッハカレッジの短期コースの参加者には瞑想が初めての人も少なくない。瞑想について豊かな知識をもつウェンディーさんはそのような人に対して、その人に合った瞑想の仕方をアドバイスしていた。
 もしかしたら、現代における瞑想は、かつてのシャーマンが行っていた役目に相当するのかもしれない。

宇宙の本源と結びついた生き方

 「癒し」のことを英語で「ヒーリングHealing」といい、「健康」のことを「ヘルスHealth」という。どちらの言葉も、「全体」を意味する「ホールWhole」あるいは「ホリスティックHolistic」と語源を同じにしている。ここでいう「全体」は、「自然」あるいは「宇宙の本源」とほぼ同じ意味と考えて差し支えないだろう。人間がその「自然」或いは「宇宙の本源」とむすびつき、その「全体」と同一になってる状態こそが「健康」であるということが、言葉の成り立ちにも現れている。
 病気や健康の本質を突き詰めてこられた医師や治療家の方々が、瞑想や祝詞、お経を無心で唱えることをすすめられる。それらが病気を治し、病気にならないための最も基本であることは、いるいろと考え合わせると、やはり間違いないことのような気がする。


ケルトや古代ローマの遺跡の多いダートムーア国立公園の中で

 そもそも、宇宙と結びつき、自然の摂理に従った生活をしているならば、「癒し」というものは必要ではないはずである。しかし、勝手な思いこみ、マイナスな考え方、過剰な欲望などのために、自然との結びつきを自ら失ってしまった私達は、「癒し」というものを必要としてしまっている。
 もしかしたら、私達は、あえて「癒し」を求めるべきではないのかもしれない。「癒し」をいくら追い求めても、決して問題の根本は解決しない。むしろ、「癒し」を必要としない、宇宙の本源と結びついた生き方を求め、それを実現できる世界を創って行くことこそ、今の私達に求められている最も大事な課題のような気がしてならない。

Schumacher College 留学記

30年におよぶシューマッハカレッジの活動は、前半期と後半期で大きく異なります。この留学記は、その前半期にあたる、サステナブルな社会を創るために必要な考え方や知見を学ぶことを目的に、世界的な研究者や思想家、活動家が数多く招聘され、世界各国から学生が集まり、サステナビリティの分野で世界的に知られた学び場だったありし日々の様子を書き残したものです。

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